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喫煙者にとってWHOのタバコ嫌煙活動は迷惑でしかない!

最近の禁煙ブームに拍車をかけるようにタバコ撲滅キャンペーンが盛んになっています。いったいどのような取り組みになっているのでしょうか

それは一種の宗教的な聖戦といった性格を帯びたもので、科学的というよりはむしろ独断と偏狭さをその本質にもっている。そこで荒々しい施策がおこなわれ、まるで恨みでもあるかのように喫煙者は激しい攻撃にさらされている。しかも不思議なことに喫煙者の抵抗が十分でなかったから、それらの施策は多くの分野で、ますます激しい法律や規制の形をとるようになってきた。

世界保健機構(WHO)
WHOもまた各国の政府に対し、嫌煙活動にいっそう励むよう勧告書類を出版している。ヨーロッパ連合でさえ、タバコに関する宣伝活動の制限や禁止を要求して、戦闘的な政策を実行している。ヨーロッパの市民を保護し、「西暦2000年までにすべての人々に健康を」というプログラムを実現するために、あらゆることが実行されようとしている。

不幸なことに、それは健康が阻害されているとは別に感じていない喫煙者や、この穏やかな習慣に対して加えられる激しい攻撃に客観性があるとは考えていない喫煙者、そしてまた執拗な干渉によって私的な生活が侵害され悩まされていると感じている喫煙者たちとの葛藤を確実に募らせることになった。

喫煙者の多くは、自ら好んで喫煙を選択した人々であり、なぜWHOがそれを止めさせようと努力するのか理解に苦しんでいる。このWHOのキャンペーンは、高い生活水準と平均寿命が70歳以上の工業化された国々へ向けられており、そしてそのことは、食糧不足、劣悪な飲料水、悲惨な住宅条件、下痢やマラリアや結核、エイズやビルハルツ住血吸虫などなどによって平均寿命40歳未満の貧しい低開発国住民に向けられるべき努力を犠牲にしているのである。

もともとWHOの努力は、世界人口の直面している餓死か満腹かのどちらをとるべきかとか、治療が受けられずに死ぬか、手当を受けさせて生命を救うべきかといった、厳しい選択のためにこそ向けられるべきではなかろうか。

もし我々が、「すべての人々に健康を……」というプログラムについて語るのであれば、先進国での喫煙はそれほど重要な問題ではないように思われる。
(監訳者注)中島博WHO事務局長(当時)は、WHOの顧間であるペト博士の論文を引用し、拡大解釈したスローガンを全世界にばらまいた(1993年)。

ヨーロッパ共同体(EC)
たとえ根拠が何であれ、当局者たちは片方だけの味方をしているように思われる。それは科学的根拠からきたものではない。

EC委員会は、タバコの広告に「すべての人々、特に若者の健康への配慮から」を加える指示(1989年4月7日の協議会提案)を希望している。彼らはがん対策のためのヨーロッパ協議会の行動プログラムにかかわっており、がんの症例を減らすことによって、 ヨーロッパの人々の健康状態の向上と生活の質の改善に寄与したいと願っている。そこで彼らは、タバコ消費量の制限を、高度な優先事項とした。

それは、タバコのパッケージや包装と同じように、ポスターや出版物によるタバコの広告すべてに特定の警告文の刷り込みを実行させることである。警告文のリストには12の警句、例えば「喫煙するとがんになります」、「喫煙すると循環器疾患にかかります」、「喫煙者は早死する」、「喫煙があなたを殺します」、 「喫煙すると死の病になります」といったふうに、すべて恐怖心をあおる頭ごなしの言いまわしからなっている。

話はここで終わらない。この問題は環境・健康・消費者保護の各委員会に送られ、委員会は、この指示を修正して、映画その他のメデイア、さらには「スポンサー付きの行事」にまで拡大するよう、1990年2月7日のヨーロッパ議会に働きかけた。
提案の内容は、すでにポルトガルやイタリアで実施されているのと同じく、各種のタバコ広告を禁止するというものである。
また、あらゆる種類の間接的な広告の禁止も導入された。「未だに規制を実施していない加盟国は、各種刊行物において、タバコの広告をすべて禁止すべきである」と。その論拠は「一般公衆の健康を心配して」というものであった。

この修正条項をさらに修正するため、青少年。文化・教育・ メデイア・スポーツ委員会からも提案が出された。その委員会は、タバコのパッケージの警告文について場所と大きさを指示すること、学校や軍隊における情報キャンペーンを組織化すること、ならびに喫煙の危険に関するテレビにさらに厳しい制限を求めている。小委員会における議論の場がより下の方になればなるほど、言うことはますます無制限となり、いっそう論争的になり、そして実際の証拠を基にするという点ではいよいよ無責任になっていく。

この健康に対する偏執的な心配とは、例えばデンマークにおける職業上の傷害とか、塗料や家庭用品とかの溶剤によって時たま起こる中毒事故の場合とは異なった形で現われる。これらの商品には危険の種類と中毒の可能性についてラベルに警告を表示するという強制命令がもたらされたものだが、この施策は後にECからの異議申立てによって中止された。それはEC内の市場において商品の自由な配布と自由競争を妨げると考えられたからである。健康に対する配慮については、何もかも同じというわけではないのである.′
(監訳者注)現在はヨーロッパ連合(EU)となっている。

ウソとデタラメ
疑問はまだまだ残ったままだ。ヨーロッパには400年もの喫煙の歴史があるのに、なぜ我々喫煙者たちは、今このような戦闘的迫害を受けるのだろうか? それは本当の脅威から公衆の注意を逸らすためなのか、それとも、言わずと知れたメデイアの売名行為なのだろうか? タバコの話題は夏枯れ時の定番となっており、ネス湖のネッシーを凌ぐものである。嫌煙プロパガンダに寄与しているコラム欄の数は、本来の社会的、職業的ならびに環境にかかわる問題はいうまでもなく、生態系や政府の重大な問題に割り当てられたものと比較しても、かなりの分量にのぼっている。

いったい喫煙には本当にどれほどの危険がともなうものだろうか。 もし本当に危険であるとするならば、その程度は評定できるのだろうか? 喫煙に反対する議論の大多数は独断的であり、あてにならないか、あるいは犯罪的と見なされてもおかしくないほど疑わしいものである。しかし、つまらない論議でも絶えず繰り返され、特に御用新聞によってとりあげられると、そのたびにだんだん権威を増していくのだから、 これ以上に困ったことはない。

毎年、デンマークでは25、000人の喫煙者が死亡しているという。いったいこの種の数字にどんな意味があるのだろう? 毎年、30、000人の非喫煙者と20、000人のドライバーが死亡しているが、全人口中の死亡者の80%は高齢による死亡である。多くのドライバーは、彼らがドライバーであるが故に死亡するのではない。ましてや非喫煙者は、彼らが非喫煙であるが故に死亡するのではない。そして毎年、喫煙者中の23、000人が肺がんにかかることなく死亡している。

我々はゲッペルス博士から次のことを学んでいる。すなわち、プロパガンダを成功させるためには、必ずしも嘘偽の数字を使うことが必要なわけではない。東部戦線で撃破した敵の戦車の膨大な数に関する軍の報告は、味方の失った戦車の数が示されない限り、戦争ではドイツ軍にツキがあり、優勢で望みがあるという印象を与えることができたのである。

このテクニックは今でも使われている。ある専門雑誌に書かれた中島博博士の計算では、世界中のどこかで13秒に1人の喫煙者が死亡している。この所見は世界の報道機関で議論され、WHOでの討論で新しい主張として前面に押し出されてきたものである。それならば、いったいどのようにして喫煙の継続を正当化できるというのだろうか? まさか喫煙者に対して生命保険の契約掛金を高くすべきだというのではないだろうが?

その理由について、少々懐疑論者となってWHOの『世界保健統計年報1988年版』を高校初級レベルの数学をまじえながら眺めてみよう。我々はそこで世界の人口511、229万人における年間死亡者合計の率が1000人当たり10.4であることを知る。
そこから我々は、毎秒1.7人が死亡していると容易に計算できる。

ところが、中島博士によれば、喫煙者の死亡割合は13秒に1人であるという。それでは大きな母集団に比べ、喫煙者の危険率が遥かに少ないことになるではないか。むしろ全世界の健康のためには、 もっと多くの人々が喫煙を始めるべきではないだろうか?
ところで、因果関連の可能性は計算のなかに入っていない。
喫煙者は死ぬ。がしかし、 どのくらいの人数がタバコを吸うことで死亡しているのだろうか? 喫煙はそれによって生き延びるということにほとんど影響がないのと同様、それで死ぬことにもまたほとんど関係ない。喫煙者のある者は他の人々と同様に高齢で死ぬだろうし、あるいは交通事故で死亡するだろう。

最近イタリアで発表されたレポートによれば、両親とも喫煙者の子供は両親が非喫煙者の場合と比較していびきをかく子が多いらしいとある。新聞はその見出しで「受動喫煙が子供たちを病気にし」、「喫煙者の子供たちが一番いびきをかく」と書いた。この話は次のことを示唆していよう。

つまり、いびきは高血圧や心臓障害や中風に関連した非常に重大な事柄かも知れない。子供たちのこれらの状態の危険性は控えめに見積もっても、 少々大袈裟すぎはしないだろうか。それはさておき、このレポートは何を言いたいのだろうか? いびきをかく10人のイタリアの子供たちのうち7人は両親がタバコを吸う。しかし、いびきをかく10人のイタリアの子供たちの9人の両親がスパゲティを食べるとは言っていない。誤りは、偶然の一致を因果関係の証拠として示していることにある。



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