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100円ライターが日本で生まれて流行るまでの感動の歴史

現在、用いられている火種といえば当然ライターですが、これには100円ライターからジッポまでさまざまな種類のものがあります。人によって使っているライターはそれぞれですが、この便利で手軽なライターというものは、いつ生まれたのでしょうか。

日本でライターの原型が生まれたのは1772年までさかのぼる。江戸幕府の老中・田沼意次によって、長崎貿易が拡大されていた頃である。タバコ文化が日本に入ってきてから長い間、喫煙者は外出時の準備が大変だった。
彼らは、きせるだけではなく、火をつけるための火繩や火打ち石を携帯しなければ、外出先でタバコを吸うことができなかった。

そのような面倒を解消しようとしたのが「平賀源内」である。
彼はエレキテルの復元や、オランダ医学書の翻訳など、マルチな才能を発揮した人物として有名だが、実はライターの元になる道具まで作っていたのだ。

「源内ライター」は、バネの反動を利用し、小さな鉄の先を火打ち石にぶつけて火花を起こすという構造のものだった。火花は中に入ったもぐさに燃え移り、きせるに火を移すことができるのである。この構造は、当時使われていたフリントロック式の西洋銃に似ていた。

フリントロックとは、引き金を引くことで撃鉄が作動して当たり金にぶつかり、火花を発するという仕組みであった。イギリスなどでは、この銃が壊れると、ライターとして再利用していたようである。
おそらく源内は、この西洋銃からヒントを得たのだろう。

また、この「源内ライター」は蓋つきで、蓋を閉じるとクルミぐらいの大きさになった。そのため、根付としても大変便利だったようだ。

だが、そのような画期的な発明にもかかわらず、当時の人たちの間ではあまり流行らなかった。おそらく、江戸時代の人たちは「ライター」というものに馴染めなかったのだろう。
源内はいつも同時代の人たちより先を行きすぎていたのではないだろうか。これも天才ならではである。


現在最も需要のあるライターと言えば、「100円ライター」の愛称で知られる使い捨てライターだろう。

わずか100円で購入でき、ガスがなくなれば捨てればいい。
この便利なライターは、いつどこで作られたのだろうか。
実は、あまり知られていないことだが、100円ライターは日本で開発された。

日本のクラウン社が1970年に開発したのが最初である。その時は「100円ライター」とは言わず、「マチュラー」と呼ばれていた。
だが、この「マチュラー」はあまり流行らなかったようで、いつの間にか姿を消していた。

それから5年後の75年、日本はオイルショックの余波にもまれていた。
多くの企業が人件費削減や省エネルギーに取り組み、家庭内でも省エネ、節約がちょっとしたブームになっていた。
省エネブームに乗って、使い捨てカイロが開発されたのもこの年であった。

そんな日本に再び現れたのが、「使い捨て100円ライター」である。
生産したのは株式会社東海、新しくつけられた名前は「チルチルミチル」だった。
点火可能回数は約1300回、値段は100円と、耐久力がよい上に値段も安かったため、かなりの人気を博した。

使い捨てカイロと同様、省エネブームにうまく乗ったことも勝因の1つだったのだろう。
多いときには月間で600万~700万個も売れたというから人気のほどが窺える。

この株式会社東海だが、100円ライターのおかげで、その後急成長を成しとげる。その後経営悪化により倒産したが、民事再生法により再建を果たしている。
その反面、100円ライターは世界中に広まっていき、ヨーロッパやアジア諸国でも買うことができる。
「100円ライター」、「オイルショック」という逆境の中から生まれたたくましい商品なのだ。

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