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喫煙者はタバコで満たされないのにやめれないのはなぜ?

この疑問については、科学のさまざまな分野で、そしていろいろな水準で研究がおこなわれてきた。中には取るに足りないものもあり、重要なものもあった。文献はたくさんあるにはあるが、これまでの最善の解答は、まさに人はそれが好きだから吸うのである。

この素敵な主張とは別に、特定の作用について数多くの研究報告がなされ、それぞれがタバコ喫煙の論証とされている。電気生理学、心理社会学、遺伝学、神経化学、その他の多くの専門家たちがこの問題を深く掘り起こしては、人はなぜタバコを吸うのか、その理由を発見しつづけてきた。

なぜ人はタバコを吸うのか、その理由を明らかにすることに最大の興味を抱いてきたのは、直観的にタバコ産業界で広告に携わっている人々だと、あなたは考えるだろう。

しかし、広告が人々に喫煙をはじめさせたり継続させたりすることはないし、タバコ業界の広告がある銘柄のシェアを確保するくらいの効果しかないことは早くから知られている。 当然のごとく、心理学者や教育学者たちも喫煙の動機に興味を抱いてきた。フロイト派の精神分析家は口唇期の固着ということで説明し、喫煙する人は愛情不足の母親が早期に離乳させた結果、現在その代償を喫煙に求めているのだと言えるかもしれないという。また喫煙は性的抑圧の一例であって、キスの代用であると説明するかもしれない。マリリンモンローの唇に口づけできなくても、「パルタガス」(訳者注:葉巻の銘柄名)に火をつけてキスすることはできるのだから、 と。

どんな圧力が初心者を喫煙へ駆り立て、また誰が喫煙を教えるのだろうか。集団行動や友人の圧力について調査されてきたが、それは英雄像や父親像との同一視ではないかとするものである。自我が脆弱であるために、国家的に有名な人物やマスコミのアイドルの喫煙を真似ることで、強さと安心感を得ようとするのだという主張である。

社会学者は、文化レベルや地域社会の伝統、社会環境、職業、家族の影響をあげて、喫煙が明らかに社会に依存した行動パターンであると見なしている。これは喫煙者と非喫煙者の性別や社会階層別、職業別、交友関係別の分布によって明らかであるという。

心理学は社会学の見解を追認して、下層階級や都会の人々がより多く喫煙をし、 とくにシガレットを好むこと、専門職やマスコミの人々は他と比べてはるかに大量のシガレットを吸うこと、パイプは一般にある特定の社会集団において好まれること、そして葉巻は、生まれ故郷であり、かつ広く愛好されているラテン・アメリカを除くと、むしろ偏った社会分布をなしていることを認めている。

また、一見まったく崩れることのなさそうな喫煙習慣も、非喫煙者との結婚とか、新たに禁煙環境の仕事に就くとか、改宗といった生活状況の劇的変化にともなって変わることが経験される。強力な圧力団体が熱心にタバコを悪習と決めつけ、喫煙者から放棄させようとしている。

健康運動の主唱者たちは、タバコは有害であるという確信に動機づけられて、何でもよいから証拠を探し求めようとしてきた。この中には善意の医療関係者の病気予防の試みも含まれておれば、宣教師による非喫煙への転向の試みもある。これらの運動の矢面に立たされる喫煙者はどうかというと、 したくもないことをさせられようとする間、できる限り苛立ちを我慢しようとしている。大多数の喫煙者は、これらすべての攻撃を無視しようと努力している。彼らは、そっとしておいてほしいと願っている。喫煙行動にはモデルがたくさんある。

たとえば、アイゼンクの素質=ストレス・モデル、 トムキンの情緒コントロール・モデルなどがそれである。喫煙の素因を形成する要因として家族の喫煙パターンが挙げられるが、これにパーソナリティの構造、情動的基礎、状況によって形成された動機などが加えられる。喫煙は伝統的な教示、あるいは模倣メカニズムや青年期の社会心理学的影響力を通じて学習され、そして社会的な接触や承認を獲得する手段であるとして説明されてきた。

何か一つの動機をはっきりと中心にすえていない研究やリポートもたくさんある。おそらく、これらのすべてに何かがあるに違いない。つまり、ある人々にとっては他の人々よりももっと重要なものである。ここにおもしろい観察がある。すなわち、暗闇の中でタバコを吸って満足する人はほとんどいないというのだ。

明らかに煙を見ることが必要なのである。これは喫煙の置かれている状況、つまり儀式的習慣めいた気楽さや、視覚、嗅覚、仲間との交わり、瞑想とタバコとの関係などを暗示している。煙が見えることに何の重要性も考えたことのなかった私にとって、この見解は大きな驚きであった。

喫煙者の動機に関して、 より具体的な研究のなかから、1978年にパリで開催されたニコチンの電気生理学的作用に関する国際シンポジウムのリポートや、ネイ(Ney)とゲール(Gales)が「喫煙と人間行動」について集めた論文集、またニコチンのさまざまな作用を証明する世界中のたくさんの論文を引用することができる。それらには学習の改善、達成水準と注意、不安軽減とリラクゼーション、脳波で記録された正の効果、エネルギー転換などがある。

やや専門的とは言いにくいが、この問題全体にかかわる評論は、たとえばトリソンが編集した『奥煙と社会』とか、 ウェッテラー(Wetterer)とトロシユケの『喫煙者の動機』の中に見いだせる。この他にも熱心な研究者がいて、彼らの名前はここ数年の間に何度も登場し、ウオーバートン(Warburton)が『ニコチン使用のパズル』で語るように 少しずつこの問題の謎解きを前進させている。

近年、タバコ論争は新しい方向に向かい、ニコチンを嗜癖物質と特徴づけて、ヘロインやコカインと同等と見なそうとしつつある。この見解の主張者が主役となって反タバコ論争を鼓舞しており、その代表はアメリカ合衆国の公衆衛生総監である。

その論拠は、タバコを嗜癖物の定義に適合させようとするあまり、タバコのもつ実際の作用を歪めている。合衆国公衆衛生総監は、タバコには嗜癖があり、 したがって嗜癖の定義をタバコを含むものに公式化しようと主張する。その定義が他の既知の催眠物質に当てはまらないこと、 さらにいっそう無意味だと思えることは、それが討論の中で大きな重みをもってきたことである。

同様の方法をカナダの王立協会も採用しているが、 ここは嗜癖という先例のない定義を擁護するばかりである。アメリカ精神医学会も先例を追って、タバコを止めた喫煙者の禁断症状の識別に役立つ診断基準のリストを作成している。私たちのように薬物乱用や薬物嗜癖の解明に従事している研究者は、極く単純で容易に記述しうる嗜癖の基準をいくつか開発してきた。ある物質が既存の定義に適合するか否かを検討することは理解できるが、ある特定の物質が適合するよう定義を変えるというのは筋が通らない話である。

たとえ食べ物であろうと飲み物であろうと、あるいは薬物であろうとも、ある人と含有物質との関係は、それを摂りたいという願望にもとづいている。心理的な依存が生まれると、人はその物質に慣れ親しんで、それなしで済ませなければならない場合は寂しく感じるものである。

食べ物に加えるスパイスや、朝のロールケーキのペパーミントや蜂蜜がそれである。この依存は、仕事に影響するほど強くはなく、 ときどきその物が欠乏しても通常の能率を左右するわけではない。いらいらしたり、困ることはあるかもしれないが、機能は正常である。心理的にある物質に依存し、順化(習慣化)されていても、その物質とのかかわり方にはいつも選択の自由がある。すなわち、タバコ1箱を求めるために、わざわざ外出する労をいとわないか、それとも余りにも遠すぎるとか雨が降っているという理由で我慢するか、 どちらかを選ぶことができるであろう。

もし身体的依存ならば、心理的依存の場合とはまったく異なって選択の自由がない。のどの渇いた人が水を欲しがるように、機能を満たす物質を必要とする。そのうえ、要求を満たすものが手に入らなければ機能は悪化する、 というよりも、 まったく機能を果たさなくなる。手に入れなければ、 もはや病気になってしまうのである。



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