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健康には個人差があり、タバコは身体に悪いけど精神的には良い

健康とは身体的にも精神的にも健全な状態にあることをいいますが、健全な状態とは極めて個人的で幅があり、また、加齢や環境によって変化していくものなのです。
「タバコは健康に悪い」とよく言われていますが、健康とは一体何なのでしょうか。「健康のためなら死んでもいい」などと笑うに笑えない話を聞きますが、それは健康であることを「目的」としている考え方です。そもそも、健康とは目的ではなく「手段」です。人間とは肉体を通じて精神活動を行っている生き物であり、生きる意味とのかかわりにおいて、健康とは何かを考えなければならないのではないでしょうか。

この場合、身体的健康のみではなく心身トータルの健康を考えねばなりません。身体が痛ければ痛みを和らげたいと思うし、体調が不良ならば良好な本調を望むという肉体の声に基づく願望はあります。しかし、人間とは精神的欲求や社会的な渇望によって行動することを本質としており、肉体の生理的必要や有用性のみで行動しているのではありません。

ストレス社会こそ元凶
よく物書きで、煙草をやめたら仕事ができなくなる、と言う人もいますが、学者・評論家でも、知的作業は緊張を強いるから、もし喫煙者になる遺伝的素質を持っており、喫煙の習慣を身につけてしまったら、まずやめられないでしょう。

30代、40代で仕事を持っている喫煙者の多くが、やはり仕事のことやら家族のことやらでストレスまみれだから、断煙したとしたらむしろストレスの解消ができなくなって寿命を縮めるのではないかとさえ思います。

これに対して、喫煙は心拍数を増やすからストレス解消にはならない、と言う人もいます。ですが、ストレス解消などというのは、当人がストレス解消になっていると思えばストレス解消なのです。

そしてどう考えたって、現代社会はストレス社会になっています。なのにこの反煙草運動で煙草をやめている人が多いとすれば、そのストレス解消法は何か別のものに置き換えられていると考えるべきではないでしょうか。

これ追跡調査しなければ分かりませんが、煙草をやめた代わりにアル中になったり、暴力を振るうようになったのではしょうがないし、仕事ができなくなってもしょうがないといえます。


健康とは身体的にも精神的にも健全な状態にあることをいいますが、健全な状態とは極めて個人的で幅があり、また、加齢や環境によって変化していくものなのです。
一方、心身トータルの有機的統一体である人間のダイナミック・プロセスが崩れた状態を「病気」と言いますが、生命力というバランス回復力・自己治癒力にも目を向けるべきです。
身体的健康のみに目を向け、また、個人差を考えずに標準値のみで判断しているのが今日の健康という概念ではないでしょうか。

なぜ、過剰に健康を崇める風潮になったのでしようか。健康になればもっと健康になろうという進歩主義こそ、近代社会の健康追求運動の基盤です。さらに、その健康観を代表するのが、「健康とは、身体的、精神的、社会的に良好な状態である」というWHOの健康の定義であるとして、その考え方に深い洞察を加えています。

社会的基準によって規制される"健康"は、個々人に自分自身の健康基準を捨てさせ、社会的な健康基準に同調するように迫る「健康への脅迫」ともなっています。今日、健康の名の下に公権力が個人の行動領域に介入する正当性は、このような考え方が背景にあるのです。

社会が関与する健康は、その社会的要請が身体的健康ですから、当然、身体的健康第一主義の考え方が広まっていきます。一方、産業社会に生きる個人の立場から見れば、病気への不安、死への不安が自分の健康に関心を高めることになっています。このように、健康とは社会が関与すべきものであり、身体的健康を第一義とし、異常なものを排除する、という考え方が今日の健康観の根底にあるのです。このような健康観は不安を煽るのみで、人生の意義といったものは彼方に追いやられています。これも、豊かな物質社会のパラドックスなのでしょう。

健康とはあくまでも手段であり個人的なものであって、しかも、加齢や環境によって変わるものですから、個々人の自立,自律を基本に考えて社会の関与は最小限にとどめることが必要ではないでしょうか。

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